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『この世界にようこそ』ができるまで その1 [book]

『この世界にようこそ』完成までのお話を、作者の広瀬裕子さんにインタビューしました。とても面白い話が聞けたので、5回にわけて紹介したいと思います。1回目は、20年前に書き手としてデビューした時のお話から。編集担当のミルブックス藤原との対談形式で進行します。


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『この世界にようこそ』ができるまで その1
対談 広瀬裕子(作者)× 藤原康二(編集)


■編集者を目指していたのに、書き手に

藤原 今年で作家生活20周年ですよね。『イルカと友だちになる方法』(講談社)が出版されたのが1994年8月25日なので、『この世界にようこそ』はギリギリ20周年記念作品として出すことができました。まずは、時間をぐっと20年前に戻して、広瀬さんが本を出すことになったきっかけからお話いただいてもいいでしょうか。
広瀬 書く仕事をする前は、出版社で書籍編集を5年ほどやっていました。いつかはフリーの単行本の編集者になりたいと思いながら。初めての著作『イルカと友だちになる方法』が出た頃は、まだ会社に在籍をしていました。
藤原 これは絵本を出そうと思って書いたんですか。
広瀬 いやいや、全くそうではなく。こういう本が作りたいと、企画会議の見本として書いたものなんです。それを講談社の編集者の方に見せたら、「これ、そのまま絵本になりますよ」と言われたんです。
藤原 企画書のつもりで書いたら、本になっちゃったんですか。
広瀬 そうなんです。見本の時点でイラストレーターの平野恵理子さんにもイラストを描いていただいていたので。あっという間に出版することになったんです。それがもう20年も前。
藤原 去年は1994年から20年ということで、その時代を振り返ることが多かったような気がします。昨年ミルブックスから『鎌倉のカフェで君を笑顔にするのが僕の仕事』という本を出版いただいた鎌倉のカフェ・ヴィヴモン・ディモンシュも1994年のオープン。広瀬さんも私も好きなシンガーソングライター小沢健二さんのアルバム『LIFE』が発売されたのも1994年8月で、広瀬さんの本が出た頃なんです。
広瀬 そんなに前の作品なんですね。もう20年も聴き続けているんだ。今でもよく聴きますよ。鎌倉に住んでいることもあって、ディモンシュにもよく通っていますが、そんなことは今まで全く意識していませんでした。
藤原 1994年はバブルが終わって混沌としていた頃ではあるのですが、今振り返ると新しい何かが始まったり、『LIFE』のようにずっと愛され続ける作品が誕生した時期なのかもしれません。
広瀬 20年も経ったなんて、まったく他人事のように思えます。藤原さんに指摘されて、書くことを始めてから20年経ったことに気がついたくらいですから。

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■多忙な日々と、プレッシャーとの葛藤

藤原 この本が出た後、作家としての活動を始めたんですか。
広瀬 しばらくはフリーとして雑誌の仕事もしていましたが、書籍でやっていけたらいいなと思っていて。雑誌はサイクルが早くすぐに店頭からなってしまうけど、本は息長く読んでもらえる。私、本が好きなんです。
藤原 一時期、たくさん本を出している時期がありましたよね。
広瀬 年に3〜4冊のペースで出していました。確か15年前くらい。仕事中心の日々でした。
藤原 その頃には、いろんな出版社から執筆の依頼が来るようになったですか。
広瀬 嬉しいことに、たくさんのお話をいただくようになったのですが、多くの出版社とおつき合いするのは難しくて。数社に絞って、同じところから出すようにしてました。
藤原 タイトル数もそうですが、売り上げもかなり好調でしたよね。
広瀬 あんなに多くの方に受け入れてもらえるとは予想もしていませんでした。10代の頃からずっとマイノリティー側と感じていたくらいなので。それは今もそうなんですが。だから最初は、売り上げのことは全く意識していませんでした。まわりから言われて、少し変わっていったかな。
藤原 本が売れるようになって、前と変わったことってありますか。
広瀬 最初ははっきりとした締め切りはなくて、書き終わったら出すというような感じだったんです。締め切りが苦手なので、自由にやらせてもらっていた。それが、明確な締め切りが決められて、この日に発売するから、いついつまでに書き上げないといけないというようになりました。それに、営業の人や広告の方も関わるようになったんです。広告をこの日に出すから、絶対に発売日を落としてはいけないという状況で。今考えたら、そんなことは気にしなければいいんですが、本づくりがちがう一面を持ちはじめ、プレッシャーになっていったかな。
藤原 締め切りに加えて、宣伝費にも予算をかけるとなると、売り上げを意識しないで書くのは難しくなりますよね。
広瀬 そんな状態が5年間くらい、2000年代の半ばまで続きました。「これは長くはつづけられない」と思い、元々、海のそばで暮らしたかったのと、仕事のペースを変えたくて東京から葉山に引っ越ししました。

■「その2」へつづく
http://millebooks.blog.so-net.ne.jp/2015-05-13



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