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『田辺のたのしみ』が生まれるまで [book]

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 第二の故郷という言葉がある。故郷は、生まれた場所や幼少期に過ごした地を指すことが多く、その定義は明確だ。しかし第二の故郷となると、思う土地は人それぞれだろう。人生の中で二番目に長く暮らした土地、学生時代に過ごした町、故郷以外の場所で就職した人はその地が第二の故郷になるかもしれない。
 私の第二の故郷はどこだろうと考えた時に、即座にひとつの場所を思い浮かべることができなかった。出身地以外で一番長く暮らしているのは、ミルブックスを始めるために上京してからずっと暮らしている東京都杉並区となるのだが、いまだ故郷という意識はなく、ずっと居候している感覚だ。思い出深い地となると大学を卒業して就職してから7年近く働いていた名古屋になるのかもしれないが、第二の故郷と呼ぶには違うような気がしている。
 ある時、甲斐みのりさんにこの問いかけをした際に、迷うことなく「和歌山県田辺市です」という答えが返ってきた。私が知る限り、甲斐みのりさんは和歌山県で暮らしていたことはないはず。数人もいた場での話の流れだったので、その理由について深く聞くこともないまま、そう質問したことさえ忘れていた。
 
 それから随分と経った2020年のこと。コロナ渦となり、なかなか打ち合わせや取材ができない状況で作れる本はないだろうかと考えていた。そんな最中、ずっとあたためていたけれど制作に至っていない本のアイデアを思い出した。甲斐みのりさんがこれまで新聞や雑誌に執筆したエッセイをまとめた随筆集を出版する企画だった。
 そのアイデアを実現させて出版したのが『たべるたのしみ』『くらすたのしみ』の2冊。文章はそのまま掲載するのではなく、大幅に加筆いただき、結果的にその多くは書き下ろしと言っても差し支えないほど、丁寧に何度も推敲してくれた。
 おかげさまで2冊の随筆集は好評をいただき、『くらすたのしみ』に掲載した「〈好き〉が詰まったスケッチブック」が日本女子大学附属中学校の国語の入試問題に採用されるという嬉しい出来事もあった。
 
 コロナ渦ということもあり直接会って打ち合わせすることもほとんどなかったが、随筆集の制作は順調に進んだ。そして2冊目の『くらすたのしみ』の編集がほぼ終了する頃、久しぶりにお会いした甲斐みのりさんから、こんな相談があった。
「『たべるたのしみ』と『くらすたのしみ』に掲載する文章を読み返しているうちに、どうしても書籍として残しておきたい土地があることに気づいたんです。随分前に、みんなで第二の故郷はどこかって話しをしたこと覚えていますか。その時に私が答えた、和歌山県田辺市について綴りたいんです」
 正直に言うと私は、その会話をしたことをすっかり忘れていた。そして和歌山県田辺市がどこにある町なのか、ぼんやりとしか浮かんでこなかった。以前、パンダがたくさん暮らしていることで有名なアドベンチャーワールドと南紀白浜に遊びに行ったことがある。確かそのお隣が田辺市だったような、という曖昧な記憶しかなかった。
 詳しく話を聞くと、甲斐みのりさんは年に数回、10年近くも田辺に通い続けているという。最初は仕事で招かれて訪れたそうだが、今では仕事とは全く関係なく、ただ好きだから季節ごとに通っているという。
 さらに話を聞くと、出身地でもなければ、幼少期や学生時代に暮らしたことがあるわけでも、働いていたことがあるわけでもなく、パンダに会いにいくわけでもないそうだ。魅力的な観光スポットがあるのかと聞くと、観光地ではなく、街中に温泉がわく温泉街でもないときている。田辺から少し離れた熊野には日本最古の温泉があるそうだが、そこが目的でもなさそうだ。
 どうして田辺にそこまで惹かれているのか、一言では表現することが難しいという様子だった。
「大袈裟に言えば、日本各地から消えつつある大切なものがまだ残っているんです。それを多くの人に知ってもらうために、田辺の本をどうしても作りたい。田辺には特別な何かがあるんです」
 いつもクールな甲斐みのりさんからの、静かながら熱情溢れる言葉に、私も田辺へ一気に関心を持った。
 
 本の制作を進めていく中で、次第に甲斐みのりさんが田辺に魅了され、どうしても本にまとめたいと思うようになったか、次第にその感覚がわかっていった。その理由はこれだとは明確に答えることができないことも、HPやSNSでは伝えることは難しく、どうしても物として実在する本にしたいという気持ちがとても理解できた。
 『田辺のたのしみ』には「この町に流れる穏やかな風を体感して欲しい」と綴られている。おそらくその何かは、穏やかな風のようなものなのだ。それを表現するのは不可能なのかもしれないが、甲斐みのりさんの心を捉えた、田辺の町が持つ「風」が伝わるように、できうり限り丁寧に編纂した。
 和歌山県はかつて紀伊国と呼ばれていたが、元々は木々が生い茂っていたことから「木国(きのくに)」と表記されていたそうだ。これは後づけに過ぎないが、今でも豊かな森林が茂る紀伊・田辺の魅力を綴るには、木から作られた紙を使って表現することが必然であるように思った。
 
 最後に、ひとことでは捉えることが難しい田辺の魅力がどこにあるが、そのヒントになる甲斐みのりさんによる「はじめに」の文章の一部を紹介したい。「田辺のたのしみ」を読み終える頃にはきっと、甲斐みのりさんがこの地を第二の故郷と呼び、心から愛する理由がわかるだろう。
 
温暖な気候で、人柄ものんびりしている田辺。美味しい魚料理や麺料理、甘く愛らしい素朴なお菓子、昔ながらの喫茶店やパン屋。美味だけではない。どこまでも鮮青が広がる穏やかな海岸、ゴロゴロと豊かに実るみかん畑や梅畑、偉人ゆかりの旧居や神社。いつか体験したような懐かしさと非日常が感じられる、大切な宝物が見つかるかけがえのない場所だ。ひとりでも多くの人が田辺を訪れ、この町に流れる穏やかな風を体感して欲しいと心から願っている。元気に体が動く限り私は、田辺に通い、この地で季節の移ろいを感じながら、変わることのない風景も、変化も見届けたい。田辺には、目には見えないけれど大切ななにかが宿っている。

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